布ぞうり(室内履き)販売中!

 素足にも気持ち良い布編みの草履です。ワラ草履をアレンジし、室内履き用にしつらえました。ソール部に固く編みこまれた布が、モップのように床の汚れを吸着するので、特に台所仕事に重宝します。洗濯して繰り返し使えます。
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隠れる必要がなくなってからも敢えて隠れていた謎

 﨑津と今富は、距離こそ2kmしか離れていませんが、明治期、その隠れキリシタン*1の対応は正反対でした。﨑津の隠れキリシタン(の多く?)が再来したローマ教会に再帰依したのに対して、今富では明治以降も合宗せず隠れの信仰風習を続けました。なぜ、今富の隠れキリシタンたちは、もはや隠れる必要がなくなってからも、あえて「隠れて」信仰風習を続けていたのでしょうか。そのメンタリティはどのようなものだったのでしょうか。資料と老翁の話をもとに、勝手な推測を少ししてみます。

雲南省と天草は「米の道」で結ばれているのか?

 翁の隣で見習いとて布ぞうりを綯うていると、ぽつりぽつりと問わず語りに語られる体験は、時として民俗学のテキストを髣髴とさせます。

 たとえば、二才宿(若衆宿のこの地での呼称)。一般的には、明治期にはいって衰退したというのが通説ですが、この地では、夜這いともども、戦後しばらくは続いていたといいます。夜這いに関しては、翁は戦後すでに年長者だったので実行部隊というより唆す方だったということですが、この点の信憑性にはちょっと疑問符をつけておきましょう。

伊達に元気で長寿してるわけじゃない

 ワラ細工の翁師匠88歳。自転車にも乗れば、畑作業もする。 60代といっても通るくらい、贅肉のない、いい身体をしています。話を聞いていると、節目節目で強運の追い風があったことを実感します。

 8人兄弟の末弟。翁の家は、末子相続*でした。これがそもそものツキのはじまり。親兄弟から、家を絶やさぬよう、死地からなるべく遠ざかるよう配慮されていたことが話の折々に伺えます。

天草市でイノシシ数がヒト数を超える日

 天草のイノシシは一度絶滅した歴史をもっています。江戸時代には、猟銃が各村に貸与され、イノシシに関する昔話も残っていますから、実際に生息していたものと思われます。絶滅したのは、江戸末期の飢饉の際、人に捕りつくされたためといわれていますが、あきらかではありません。
 百年以上たった1990年代、東シナ海を漂うボートピープルが西から天草に流れ着いた頃、イノシシが東南の九州本土や長島から海を泳ぎわたってやってくるのを目撃したとの漁師の証言を、又聞きですが、よく聞かされます。

天草下島南部のメンタリティが日本の始祖形である理由

 天草下島南部のヒトは「××せんばつまらん」とよく言います。××しなければならない、××せざるを得ない、といった意味です。

 「××したい」からするのではなく、社会的な責務に基づいて行動するメンタリティです。一見、素敵な大人の動機付けのようですが、どちらかというと、集団主義で自責を伴わない、何故そうするのかを問うことを免れる(思考停止)点にメリットがあるようです。「××を行う目的や責任のことは誰かにお任せするわ。やらねばと言われているから私はやるまでよ」ということです。お上頼みも、せんばつまらん精神と密接に絡んでいると思われます。ひょっとすると、隠れキリシタン裾野集団の原動力のひとつかもしれません。

年収格差を逆手にとってニッチなゲームができないかなと

 天草に引っ越してきて、ハローワークに出向いて驚いたのは、総じて賃金レベルが都市圏よりも低い(それも半分くらいに)ことです。

 たとえば、正規看護師の募集賃金は、関東圏なら月40万円以上だと思いますが、天草では月20万円から25万円。これでも雇用賃金としては高額な部類です。民間事業者に雇用される場合の賃金は総じて月15万円前後。時給換算800円前後で、都市圏の学生アルバイトにも劣り、都会の単身者なら貧困レベルです。

海の民・山の民

 昭和40年代、クルマ社会が日本全土に一気に拡がりました。辺境の地天草にも五橋が架かり、舗装道路が整備されました。今、私たちは、海岸沿いに整備された快適な道路を短時間で往来する者の視点で、天草の集落群を眺めます。

 しかし、それ以前、天草下島の南西部は、低い山々と厳しい岸壁の間に間に、山の民、海の民の里々が点在する土地でした。山里の集落群を結ぶのは山中の細道であり、島を外の世界とつなぐのは﨑津や大江などの港でした。
 里は経済的には依存しながら、精神面では互いに個立していたようです。同じ隠れキリシタンの里とはいえ、大江、﨑津、今富で行事作法が相当に異なっていたことが報告されています*。