海の民・山の民

 昭和40年代、クルマ社会が日本全土に一気に拡がりました。辺境の地天草にも五橋が架かり、舗装道路が整備されました。今、私たちは、海岸沿いに整備された快適な道路を短時間で往来する者の視点で、天草の集落群を眺めます。

 しかし、それ以前、天草下島の南西部は、低い山々と厳しい岸壁の間に間に、山の民、海の民の里々が点在する土地でした。山里の集落群を結ぶのは山中の細道であり、島を外の世界とつなぐのは﨑津や大江などの港でした。
 里は経済的には依存しながら、精神面では互いに個立していたようです。同じ隠れキリシタンの里とはいえ、大江、﨑津、今富で行事作法が相当に異なっていたことが報告されています*。



 今富の昭和一桁生まれのひとたちが、時に語る子供時代の思い出話をつなぎ合わせてみます。

 山の子供たちは家で編んだぞうりを履き峠を越えて学校にいきます。なかには「山の学校」にふけてしまう子達もいます。漁撈と海運で比較的裕福な海里の子と違って、山里の家のほとんどが小作農なので、お弁当は麦飯かサツマイモです(教室で食べるのが恥ずかしくて、校庭で食べたりします)。峠道はまた、山の田畑へ耕作牛と上り下りする道であり、上納米や長崎に売る薪の運搬路であり、行商路であり、神父様の通い路でもありました(山里の子供たちは神父様を恐々遠巻きに見送ります)。
 上納米は重量が足りないと収めてもらえないので、少し多めに俵詰めされます。上納米を収める海の集落の集積場ではご馳走が振舞われ、それを楽しみに子供たちは親の荷車を押します。その上納米は港から船積みされていきました。
 山里の家々は、子沢山を養うため、随分山奥まで踏み入って耕作し、水が出れば田に、無ければ麦畑にしています。耕作に牛は欠かせませんから、家には牛小屋があります。子牛は農家にとって炭焼きと並んで重要な現金収入源でもあります。自宅の人糞・畜糞では肥やしが足りず、戦後になっても、海の里まで肥汲みに行っていました。

 片や﨑津は、明治から昭和初期、随分にぎわっていたようです。漁師たちは五島・対馬を基地に遠くは遼東半島まで船団を組んで出漁していて、その水揚げで﨑津は金回りがよく、さまざまな店が立ち並んでいたとのこと。半農半山村の今富とのコントラストは強烈だったと思います。
 今も、今富の80歳を超える老婆たちの毎日の散歩は、平坦道をたどって2kmの﨑津ではなく、慣れ親しんだ山道を上り下りするルートです。春、ツワ(山蕗の一種)摘みの季節には、峠に登り稜線に沿って、往復10km以上をこなします。

* 天草市教育委員会 﨑津・今富の集落調査報告書, 2013

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