天草下島南部のヒトは「××せんばつまらん」とよく言います。××しなければならない、××せざるを得ない、といった意味です。
「××したい」からするのではなく、社会的な責務に基づいて行動するメンタリティです。一見、素敵な大人の動機付けのようですが、どちらかというと、集団主義で自責を伴わない、何故そうするのかを問うことを免れる(思考停止)点にメリットがあるようです。「××を行う目的や責任のことは誰かにお任せするわ。やらねばと言われているから私はやるまでよ」ということです。お上頼みも、せんばつまらん精神と密接に絡んでいると思われます。ひょっとすると、隠れキリシタン裾野集団の原動力のひとつかもしれません。
恒例行事としてなんとなく続いている地元の催事、流れに乗って進んでいるようにみえる世界遺産登録運動は、せんばつまらん精神の精華でしょう。社会構造が変化していくなかで、変えたり工夫したりすることへのバイアスになっているように見えます。
せんばつまらん精神の延長で、この地では、心身ともに健康な成人男子が就業せずに自給自足を目指し、結果的に少税納税者になろうものなら、憲法の勤労義務および納税義務違反で非国民扱いされたりする始末です。うーむ。
せんばつまらん精神と表裏をなすのが、地元の風物を大切にしない気風ではないかと思っています。ごみを捨てたらどうなるかについては考えない、地元の環境保全も誰かにお任せするわと。天草で、多くのヒトが、灰皿の中身を川や海にぶちまけ、食べ終わった容器をヒョイと捨てる様は、1980年代の混濁するジャカルタ市内のようです。
結果、海にも山にも、ごみがいっぱいです(人口比)。養殖用のブイが放棄され、樹脂カバーが取れて発泡スチロールの大塊として海岸に漂着、細かい発泡粒が土砂にまぎれて、もう分離できません。トロ箱、ビニル袋、弁当ガラ、ペットボトル、空き缶は、海に漂流し、海岸に吹き溜まり、川面に引っかかり、土にまぎれて、風化していきます。ヒトたちが発泡スチロールだろうがアルミだろうが、かまわず野焼きする白煙を見たら、レイチェル・カーソンなら卒倒するでしょう。左の写真は、ほとんどヒトが来ない山裏の東シナ海岸です。一見綺麗ですが、木々の陰は漂流物でいっぱいです。
考えてみれば、せんばつまらん精神は、戦後日本の精神スタイルの根幹をなす「(面倒なことは誰かに)お任せするわ」精神と瓜二つ。というか、せんばつまらん精神は、お任せするわ精神の始祖形ではないかと思います。何せ、戦後の米国による明示的な占領と施政が6年間だったのに比べて、天草は、乱後、各藩にたらい回しされたり天領化されたり、自治なき期間が二百年以上におよぶわけですから。
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