伊達に元気で長寿してるわけじゃない

 ワラ細工の翁師匠88歳。自転車にも乗れば、畑作業もする。 60代といっても通るくらい、贅肉のない、いい身体をしています。話を聞いていると、節目節目で強運の追い風があったことを実感します。

 8人兄弟の末弟。翁の家は、末子相続*でした。これがそもそものツキのはじまり。親兄弟から、家を絶やさぬよう、死地からなるべく遠ざかるよう配慮されていたことが話の折々に伺えます。


 末子相続は、子沢山家庭の口減らしのためといわれています(老翁曰「そうでもしないと家中子供だらけになってしまう」)。が、それだけでなく、この地では生前贈与と組み合わされて、特に兄弟が近くに住む場合、一つの風習を長い時代にわたって保持するに資する制度となっていたと思います。兄たちは若い時期に家を出され、職をつけて帰郷後に独立し、実家の近くに分家していく。末弟は、兄世代と、兄の子の世代の中間に位置して、家業や慣わしの維持を、はじめは父に、ついで兄たちに、また従兄弟や甥たちにサポートしてもらいつつ、早い時期に家産を受け継ぐ。自分の末子は、自分と自分の子と時には甥でサポートする。世襲間隔が長くなり、同族のサポーターと共に事をなすので、風習が廃れにくいことを期待できます。とはいえ、父親が早世したり、飛び抜けた資質の者がいれば、末子以外が相続することになります。ですから、順当に末子相続できたことも強運のうちといえると思います。

 ちなみに、末子相続は、長崎-島原-天草-鹿児島にかけてよく見られる遺産相続形態ということです。この地域、隠れ信仰(隠れキリシタンと隠れ念仏=一向宗=浄土真宗が盛んだった地域とオーバーラップしている点が興味深いです。世代間伝承性の高さが、隠れ信仰の維持に寄与したのではないかと、僕は個人的に考えています。

 旧制中学の受験がうまくいかず、満蒙開拓義勇軍の勧誘が来るようになると、内地に留まらせるために、福岡の軍需工場に見習いとして就職させられます**。このとき既に昭和18年。中学に進んでいたら、学徒勤労動員に駆り出されていたでしょう。
 今富の同年輩の老婆に、満州に家族で入植し、戦後引揚げてきた人がいます。満鉄に乗ってハルピンの街に行った学校の遠足、辛くも大連に逃れて断髪し昼間は隠れて船を待ったこと、楽苦ともに長い話です。
 見習工員は社員ですから、待遇は悪くなかったようです。対して勤労動員の学徒は、軍人監視の下、工場の出入りは身体検査されるし、使い捨てのように使われたと言います。
 見習工の中には、少年兵に志願して霞ヶ浦の航空学校に行く者もいたようですが、翁は志願せず。このとき志願していようものなら、空技ひとつ覚えて旧式の飛行機で特攻要員です。
 昭和19年、肺結核の診断をうけ、帰郷療養を許されます。学徒動員なら、帰郷とならなかった可能性があります。しかも、半年後に会社から巡察が来た際、偶々風邪で病臥しており、回復状態思わしからずと判定され、療養継続を許されたそうです。これで、昭和20年6月の福岡大空襲に遭わずにすみます。結核といえば当事死病でしたが、翁は回復が早かったようです。
 昭和20年8月初、姉が長崎から疎開帰郷。9日、原爆のきのこ雲は、天草からも遠望できたといいます。姉の荷物を取ってくるように言われて(つまりその頃には結核は快癒していた!)、薪を積む船に便乗し、原爆投下3日後の長崎の市街に足を踏み入れ、惨状を目の当りにします。幸い、姉宅は、投下地から山ひとつ隔たっており、被害はさほどではなかった由で、1泊の後、荷物をもって無事帰郷。船に戻って泊まった点も幸いでした。原爆症の兆候なし。

 先に、末子相続のことに触れました。しかし、考えてみれば、小作農だった翁の家に、そもそも相続する資産があったのでしょうか。実際、今富の小作農は、田はもちろん、畑も自家菜園程度しか持ちません。しかし、山は持っていたのです。富農や地主は痩せて植林に向かず手間のかかる山林を欲しがらなかったようで、小作農が山林を所有し、開拓したり、山木(今も樫が多い)を薪にして売ったりしていました。江戸時代、薪による山方運用銀は、天草下島のなかでも飛びぬけていました。現在でも、今富の山は奥まで細かく所有権が区切られていて、どこが誰のものか皆良く知っており、また、水のある場所は山の中まで水田化していた跡があります。ですから薪を運ぶ貨物船は結構頻繁に運航していたのでしょう。

  戦後、翁は、米作、麦作、畑作に加えて、現金収入を得るために、山と里の中間地点に炭焼き釜を作り、自分の山から切り出した薪の炭焼きに加えて、炭焼き受託業をはじめます。なるべく山の近くで、重い材木を軽い炭にできる立地が売りでした。また、牛の種付けの仕事も始めます。農家にとって、農耕牛は、労役もさることながら、その子牛が貴重な現金収入源(本渡で市が立っていた)でしたから、血統のよい牛種をほしがり、種付け業も景気がよかったようです。血統のことを「蔓」と呼んでいるのが興味深いです。

 昭和30年代に、種の組合を作ろうということになり、翁も参加します。しかし、昭和40年代になると、モータリゼーションと農業の機械化が進展し、種付けの需要が徐々に減っていきます。
 下火になったのは種付けだけではなかったでしょう。戦後何年かは引揚者で人口膨張し、水のない山奥までサツマイモ畑にすべく開墾されたそうですが、その後人が減ると山の田畑には杉が植林されました。2016年現在では、集落を離れると、植林の手入れも滞りがち、道に落石あれどなかなか取り除けられず、次第に山深く閉ざされつつあります。

 種付けに農家に呼ばれると、酒が出て、ずいぶん呑んだそうです(一升酒を日本酒ではなく焼酎で)。しかし、42歳のとき、一気に酒を断ちます。父親からして呑兵衛***の家系で、よく断てたと思います。ちょうど、種付け業が下火になるなかで、子供たちにお金がかかるときでもあり、奮起したのでしょう。今も、酒に口をつけません。これが幸いして、糖尿にもならず、肝臓も悪くせず。

 昭和一桁世代は、置かれた立場の違いやわずかの年齢差で、ずいぶんと苦楽を異にします。特に前半世代は辛い目にあっている方も多いと思います。そんななかで、振り返れば落とし穴を巧みに避け続けたこの乗り切りようは、強運が共にあったといってよいのではないでしょうか。


* 当地での末子相続実態についての参照先:富津の文化伝承の会, 2005, ふるさとの文化 第二集
未見ですが、次の資料も:内藤莞爾, 西南九州の末子相続

**  当時、﨑津・今富から福岡までは2日がかりでした。﨑津から船で牛深にでて、知人宅で一泊。翌朝、牛深から船で三角へ。三角から国鉄で、熊本市経由で福岡へ。ちなみに、当時は真夜中に旅客便が運行がされており、停車待ち時間がすくないため、よく利用されていたそうです(一昔前までの、東京23:45発大垣行の普通電車みたいな感じ)。

*** 焼酎は量り売り。酒棚から酒瓶を取り出すや、ペロリと一杯やってから居間に持ってくる、というのがここらの酒呑みの習慣だったそうです。

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