隠れる必要がなくなってからも敢えて隠れていた謎

 﨑津と今富は、距離こそ2kmしか離れていませんが、明治期、その隠れキリシタン*1の対応は正反対でした。﨑津の隠れキリシタン(の多く?)が再来したローマ教会に再帰依したのに対して、今富では明治以降も合宗せず隠れの信仰風習を続けました。なぜ、今富の隠れキリシタンたちは、もはや隠れる必要がなくなってからも、あえて「隠れて」信仰風習を続けていたのでしょうか。そのメンタリティはどのようなものだったのでしょうか。資料と老翁の話をもとに、勝手な推測を少ししてみます。


臭いものとして蓋をされてきた歴史的経緯

 まず、大江・﨑津・今富の天草下島南西部三村の隠れキリシタンの特徴を歴史的に概観し、あえて隠れていた背景を整理しておきたいと思います。

 戦国時代末期、一族・一城の長の帰依に伴って配下の者たちが集団入信し、キリスト教徒は膨れ上がります。しかし、江戸期に入って厳しく禁じられ殉職者が出るなかで、棄教者が増える一方、教徒は信仰内容を深めていきました。自身の受難をキリストのそれと重ね合わせて、日本人にとってまったくの異物であった新約の信仰観がようやく信徒に根付いていきました。信仰者には、棄教するか、殉教するか、表面的には転びながら裏で隠れて信仰を続けるか、三つの選択肢がありました。

 ローマ教会の教団は、それぞれが現代の多国籍企業のヘッドクオーターと各カントリーオフィスのように組織化されていて、教義にも布教活動にも中央統制が効いています。しかし、その歴史的な迫害経験にも関わらず撤収・清算ルールを持っていない(代わりに天国渇望を構成員に持たせる)点は、20世紀前半のソビエト共産党コミンテルンや日本帝国陸軍と似ているようです。江戸時代の禁教下、ローマ教会は棄教転宗を認める指令を信者に出すことはありません(思いもつきません)でした。そのため、バンザイ突撃のような殉死者を徒に出し、隠れ信仰者は人物金情報の面で組織から切り離され孤立して活動せざるを得なくなります。
 挙句の果て、隠れ信仰は、明治以降、組織下の信仰者から蔑視されることになります。生真面目なキリスト教者であった遠藤周作の論調が代表的でしょう。すなわち、妥協なき殉教者こそが信仰を全うした者であり、隠れを選んだ者は転宗者、隠れキリシタンとは転宗者の子孫であると。一度裏切った者は、本来、二度と罪を犯さず教義を守るべきであるにも関わらず、多いときには毎年数回も踏み絵を踏んだ転宗者とその子孫は、慢性的に罪を犯し続ける者であると。この罪の意識がゆえに、隠れキリシタンは、その信仰対象をマリア(許しの象徴)に転化させたのであろうと。しかも、土俗信仰と混交し、もはやキリスト教とはいえない代物になっていると。この点にはあとで立ち返ります。

 さて、わが三村は、他のキリシタン地域(長崎、島原、天草上島)と、大きく異なる点があります。それは、1637-38年の島原天草の乱にほぼ参加しなかったことです。不参加の理由と背景はわかりません。ほぼというのは、三村から百人程度が、天草上島のキリシタンのメッカ津浦(乱の主軍がすでに島原に移動した後で、もぬけの殻だった)へ礼拝?に行ったところを幕府軍に捕縛され、乱の後、踏み絵を踏まなかった者は首を切られて、富岡城にさらされた事件があったからです。それくらい、乱の動静に疎かったわけです。
 乱と距離をおいたスタンスが評価されたのか、為政者の資質が幸いしたのか、三村の隠れキリシタンは、江戸期を通じて、長崎ほど過酷な弾圧を受けていません(公文書上は)。むしろ、為政者(幕府直轄の代官、また、幕府の委託を受けて統治した唐津・島原藩)は、ことを荒立てることを望まず、一揆や村からの離散者(年貢の減収に直結する)を出さぬよう、臭いものには蓋をして静観していたという印象です。したがって、乱以降は、弾圧による殉教の機会があまりなかったのではないかと思われます。牛殺しなど、キリシタン信仰を疑わせる事件が起こっても、当事者と庄屋からの証文による謝罪で為政者はことを収めてしまいます。
 一方で、三村のキリシタンは、目だった行動をとることは破滅に直結するという教訓を津浦での捕縛事件から得たことでしょう。檀家制度に組み込まれて、なるべく目立たないように信仰生活を続けていこうとしたのでしょう。
 信仰は家単位であり、家の中で家長だけが秘密組織細胞(10人ほどから形成される)に属していました。組織細胞の行事には水方(村の隠れ信仰指導者)が参加し、家長交代は組織細胞の承認が必要でした。隠匿のため婚姻も隠れキリシタンの家同士でなされたでしょう。いくら秘密にしていても、村人は互いに識別し合っていたのだと思います。寺や神社との関係も微妙なものがありました*2

 江戸時代も19世紀にはいって、蓋が一度外されました。それが、文化年間の宗門吟味(天草崩れ)事件です。幕府の委託を受けて天草を統治していた譜代松平氏の島原藩が中心となって、幕府と綿密に連携をとり、三村の庄屋・村役人を交えて周到に準備され、果断に実行されました。周到な準備とは、詳細手順の打ち合わせや慰撫的な情宣(明らかにすれば罰しないと)、果断な実行とは、物証を出させ自白させるまで手を代えて吟味の手を休めなかったことです。処置が完了するまで、江戸の幕府中枢と島原藩、さらに天草の庄屋たちは密に交信しており、この辺地への幕府の関心の高さが伺えます。吟味の目的は、異国船の接触が増えてきた情勢を踏まえて、キリシタン信仰の実態を明らかにすること、特に、外来キリスト教組織の潜入がないことを確認することでした。数ヶ月におよぶ吟味が、各村里で、また富岡代官所と島原城に連行したうえでおこなわれました。
 逃れられないと知った各村の隠れキリシタンは会合を重ねたようで、まずは何人かが先鋒として名乗り出、その後徐々に間口を開いて、事情聴取に応じていきました。組織対組織の取り引きといった感をうけます。結果、三村で多数の被疑者がリストアップされるに至ります。今富村でも、約280世帯1800人のうち嫌疑者は1000人以上、押収された信仰具物も多数に上りました。しかし、外来組織との接触は認められませんでした。そこで、島原藩は幕府の了承を得て、禁教弾圧の対象外とする、すなわち、無知蒙昧な土民による邪信(心得違い)であるとのレッテルを貼り(方便でしょう)、再び蓋をしました。嫌疑者は転宗を宣誓し、踏み絵を踏んで、刑罰を受けることなく村預けとなりました(これも公文書上は)。
 しかし、今富の古い伝承では、転宗を拒否した者60人以上が処刑され、葬式も墓標も禁じられたとされています。これが本当だとしたら、庄屋レベルでなく、藩認知のうえで、さらに、跡を残さないよう周到に処置されたことになります。正否はわかりませんが、少なくとも伝承されるだけの反感情は潜在したということです。
 その後、村に預けられた嫌疑者が苦役で相当に酷使されて隠れキリシタンの怨嗟が高まったり、また、吟味に絡んで今富村庄屋の乗っ取り(今富村の庄屋を代々の大崎氏から大江村の上田氏が奪おうとした*3)を疑った今富村の隠れキリシタン200人余による代官への強訴事件が数年後に起こったり、余波はありました。さらに、半世紀以上も雌伏して、明治初に上田庄屋の焼き討ち事件へと展開します。執念深い人たちです*4
 三村の隠れキリシタンは、教訓として、いかな為政者に対してであっても、対外的に自らの信仰を明らかにすることは得策ではないという考えを堅固にしたのだと思います。

 そして、明治維新を迎えます。明治初期は、制度設計途上で、廃毀釈かと思えば社以外での葬儀を禁止したりと朝令暮改状態です。五箇条の誓文(信教の自由を含む)も欧米諸国向けのジェスチャーで、平民向けには五傍の掲示でキリスト教を禁じます*5。江戸最末期から明治初期の長崎浦上四番崩れで多数の刑死者を出した後、行政府は、キリスト教弾圧が不平等条約改正に悪影響を及ぼすことを嫌って、明治6年にキリスト教信仰黙認を通達します。この通達とて、長崎や外国人を措けば、他府県への波及に行政府が努力したようにはみえません。明治11年、三村の隠れキリシタン(名目上は真言宗徒)はキリスト教への転宗届けを行政府に提出します。連署したのは今富村で14名。水方を含むため、コアメンバーであったと思われます。結果、大審院に上げられたものの、大審院はこれを黙殺。またもや臭いものに蓋の対応というべきでしょう公的なキリスト教解禁は、明治23年施行の大日本帝国憲法を待たねばなりません。
 そうした見通しの悪い状況下、19世紀初の宗門吟味からまだ数十年、伝承性の高い隠れキリシタンたちが、黙認の蓑の下に隠れ続けるのが得策と判断したという推測は、そうは外れていないと思います。明治17年、フェリエ神父の報告によると、今富村274軒のうち異教徒33軒(即ち、隠れキリシタン241軒)。
 この時期、再来のローマ教会と、今富村の隠れキリシタンの関係は微妙なものがあります。当時の今富村の水方のひとり大崎辰三は、その見識をフェリエ神父から高く評価されていたようです。また、明治初期、今富村の集落内に設けられた最初の孤児院の建設用地の供出に、この大崎辰三が協力し、運営はローマ教会側が行ったこと、神父たちが当時の口承オラショ(祈祷)を記録していることから、両者は折々コンタクトしていたと思われます。しかし、ローマ教会側から今富村の隠れキリシタンを積極的に再帰依させようとした記録を知りません。また、これは昭和に入ってのことですが、隠れキリシタンの家の子供たちは、「パーテラ(神父)様には近づいてはいけない」と親から言い含められていたと言います。明治のある時点で、今富村の隠れキリシタンたちは、ローマ教会と明確に袂を分かったと考えてよいと思います。
 先に記したように、ローマ教会の会派を官僚的な多国籍企業に例えるなら、渡来した神父はいわば人事ローテーションの一環で途上国に派遣された本社駐在員であり、各地の隠れキリシタン信仰風習が超ローカライズされ集落ごとに儀式様態もバラエティに富んでいたのとは随分異なります。両者は肌が合わなかったろうと容易に想像できます。
 長崎で、ローマ教会側は、隠れキリシタンを迷妄を信じる遅れた者と見下しており、その信仰内容を省みることはなく、再帰依にあたっては捨てることを求めたといいます。再帰依した信徒が古い具物を捨てるに捨てられず、何年も隠し持っていた事例が報告されています。基本的には、天草でも同じだったと思われます。ただ、﨑津の再帰依家の祭壇の再現例をみると、ローマ教会の聖物とともに隠れ時代の聖物を飾っていた事例があり、両者を自分の中に整理できずに抱え込んでしまった可能性が高いです。
 ローマ教会が組織的に隠れキリシタン信仰の内容を調査、整理、位置づけようという動きはなかった、即ち、ここでも臭いものには蓋をされたというのが、実際のところであったと思います。
 隠れキリシタン自身がどれ程認識していたかはわかりませんし、ローマ教会の神父たちは突っ込んではいませんが、仮に隠れキリシタンがその宗旨をキリスト教徒として公にした場合、ローマ教会から正式に異端認定された可能性はあったと思います。その意味で、蓋をされているを幸い、黙ってローマ教会からも隠れ続けることは、隠れキリシタンの命脈をつなぐために意味のあることでした。

 昭和13年、今富村の水方が絶えます(このとき遺物も散逸しました)。水方は世襲でなく、宗徒のなかから見識と指導力を持った者が選ばれたと言いいますから、水方が絶えるとは宗徒組織が機能しなくなったことと考えられます。コア層の劣化なのか裾野も含めた弱体化なのか、また、変化の緩急はわかりません。禁制下を生き延びてきた隠れ信仰が、明治憲法下で一応信教の自由が認められた後に衰微していくのは皮肉といえば皮肉。禁じられることによる内部結束が継続の原動力のひとつであったことの裏返しなのかもしれません。あるいは、速度を増し否応なしに押し寄せる村外の世界に巻き込まれていった、また、加速する国体思想(先祖の先に天皇を戴くこと)に隠れ信仰が呑み込まれていったということかもしれません。

 その後、今富村の隠れキリシタンのなかから、表の宗教を、真言宗仏教から神道に切り替える家が出てきます。翁の家もそうでした。寺と神社は互いの信徒縄張りがあるため、切り替えは容易ではなかったでしょう。戒名、布施など何かと費用のかかる仏事を嫌ってのことといいますが、神事は仏事より違和感が少なかったこともあるのでしょうか。

 戦争、戦後引揚者による人口膨張、高度成長期の急速な過疎化と変化が続く時代のなかで、隠れ信仰も風習も忘れられていきました。平成9年頃に地元有志によりおこなわれた今富村民への聞き取り調査の報告を読むと、存命者が昭和初期にはまだ若年であったことから、オラショの一節を唱えることができる者、葬儀の儀式の様子を覚えている者が何人かいる程度で、教義や風習の詳細を語ることのできる者はいなくなっていることがわかります。

 平成28年末現在、今富地区の人口190人、世帯数は97です。


内面的で構造化された信仰心象を持っていたという仮説

 昭和初期から、隠れキリシタンの現地調査が日本人学者によって試みられるようになり、ジャーナリズムに取り上げられる機会も出てきました。しかし、信徒組織と折々の風習の手順の調査、また、口承オラショや信仰具物の採取が中心です。隠れキリシタンのメンタリティ、すなわち、信仰に何を求めたか、どのような死生観を持っていたかに踏み込んだ調査を知りません。
 その研究結果を一言で言えば、「隠れキリスト教信仰は荒廃した。意味もわからず、聞き違えたままのオラショを唱え・伝え、儀式も形式を維持してきたに過ぎない。キリスト教とは何の関係もない俗信に堕した」というものです。先の遠藤周作の見解と通底します。

 隠れ信仰者たちが三百年もの間信仰を継続した動機として、従来の調査が挙げているのは、次の4点です。3点までは、集団のなかでの自己の位置づけに関するもので、4点とも信仰内容とは関係がありません。
(1)信仰組織ヒエラルキーのなかで、自分の価値を確かめ、高めることができること。村での身分とは離れて、唱えられるオラショが増えるなど修練を積むほど、組織の中での地位があがることを誇らしく思う心性。
(2)祖先を供養する気持ち。馴染みのない教義と生々しい経験からなる江戸初期の信仰深度を次代に伝え続けることは至難であり、行き着く先は、毎度おなじみの(神様仏様も骨抜きにするほど強力な)先祖信仰だったというわけでしょうか。
(3)秘匿された行事を共有する仲間意識。
(4)明治期、再来ローマ教会の教義に馴染めなかったこと。

 さて、19世紀はじめ、宗門吟味の際の調書に、今富村の隠れキリシタンの心性と振る舞いに関して、次のような記述があります:
宗門の輩が死ぬときは、疱瘡・熱病のように寺の坊主が葬儀に来ない原因である場合を善き死とし、坊主を罪人と言って殊の外に嫌い、法事をした場合も後を汐で清める
 宗門吟味の際に転宗を諾としない者がいた(という伝承が残る)ほど信仰強度を保っていたという点も併せて留意すべきでしょう。禁制後170年を経て、です。また、今富の隠れキリシタンの執念深さ=伝承性能の高さも既述のとおりです。

 昭和4年生まれの老翁の記憶に残っているのは次のような断片です。母親が生涯、仏壇に線香を焚くのを忌んだこと。葬式でお経を上げる際に遺体の背中(ないしは足)を向けたこと、また、経消しの祈り。いったん墓に収めた後、夜になって掘り出して葬儀をしなおしたこと(何れも土葬)。榊が他家とは異なること。

 注目したいのは、19世紀始めにも、20世紀にも、今富村の隠れキリシタンは仏教を嫌っていたということです。「仏になんぞ成るものか」という気概を感じます*6。それは、上記の4つの動機とは異なる、もっとパーソナルな思いです。信仰組織が家単位・家長中心であったにも関わらずです。

 それがどのようなものであったか、今ではわからないかもしれません。確かに、現行カトリック教理とは異なっていたのでしょう。
 昭和の終わり頃から長崎の隠れキリシタンを調査した調査者の言うように「オラショのいくつかは平易な日本語口語であり、よく聞けばその意味を捉えることができるにもかかわらず、ただ呪文のように唱えるだけ」だったかもしれません。しかし、昭和より前もそうだったのでしょうか。確かに、教理書の第九条を「大工」と書いたかもしれません。方言が多くて正典との異同を評価しにくいかもしれません。
 どのようなテキストであれ解釈の多様性はあり、語り手の意向が100%読み手に伝わるわけではなく、読み手の創造性はその解釈差異に根ざす、とするテキスト解釈学の前提からすれば、変容したことが悪いのではなく、どのように変容したのかが重要です。
 メキシコでカトリシズムに古来の伝習や風土的特徴が混合しマリア信仰が根付いているように、古くは欧州でもカーニバルなどゲルマン風習がカトリック行事として定着したように、また、告解に重きを置いたカトリックの教理そのものが聖書の一解釈にすぎないように、社会的共意識である信仰が変容していくことを止めることはできないのですから。
 いみじくも、これだけの強度を保ってきた信仰があったのであれば、その信仰心情に即した調査をおこなうべきではなかったかと思います。現行カトリック教理の側に立ち、それと異なるからといって侮蔑的な言辞を研究者が弄ぶのは、自分の調査の実証性を自ら唾棄する行為です(僕は個人的に評価できません)。日本市場は閉鎖的だと他国籍企業が叫ぶのに雷同した日本の評論家みたいなものです。

 さて、ここから先は単なる空想譚です。

 口伝で農閑期に集中的に伝承される際、意味のない言葉の丸呑みだけでは伝承は難しかったのではないかと思います。その証拠に、日本語口語オラショの方が、ラテン語ないしイタリア俗語のオラショよりも、原型を保っています。
 ここでは、オラショの意味は、何らかの形で伝承されたという仮定に立ってみます。

 最も簡約な日本語口語の教理書「ドチリナ十一か条」(1600年頃刊の印刷物に収録)。中江ノ島の「サンジュワン様の歌」、生月の「十一か条」など、名は違えど各地でオラショとして唱えられてきました。江戸初期までは教義がそれなりに標準化されていましたから、今富村に記録されているのは「大工」の断片だけですが、それ以外の条も存在したろうと思います。その死後の世界観は、イエスキリストに担保された、霊魂と身体の復活です:
アニマ(霊魂)が身体を離れると、身体は塵埃になるが、アニマは死ぬことがなく、御身ゼウスから救命を遂げさせられ、それまでの間の善悪にしたがって、アニマにも身体にも賞罰が下される。イエスキリストが限りない力にて、人々のアニマと塵埃となった身体を再結合させて蘇らせる。イエスキリストは御身ゼウスの御子にて、身をもって一切人間の御助けとなりたもうた。
 何故、成仏を嫌って霊魂と身体の復活を求めたのでしょう。人以外の動物に輪廻してしまうことを恐れたのでしょうか。キリスト教以外の神も仏もヒトが創造したものだとする教理書のプロパガンダが効いていたからでしょうか。
 どうして、(最後の審判での)霊魂と身体の復活を自分に信じ込ませることができたのでしょうか。教会もなく、宗教画もなく、オラショの内容を親から語り聞かせられたり、行事の際に自身が唱えたりというだけでは、復活に関する心象的な訴求、イメージ喚起に欠けているように思います。何らかの外伝が語り伝えられていたのでしょうか。伝承性の高さを裏付ける仕組みが見出されていないことが残念です。

 老翁がいまもおこなう幸木飾り(正月飾り)は、今富独特の臼飾りを伴っています。臼を天地逆に据えて、下になった窪みに正月料理を隠し、上になった底面に三本の杵を組み合わせます。杵は十字架を表すと老翁は言いますが、今ではこの飾りが何を表すのか、伝承でも文献でもしかと裏付けることはできないとされています。
臼の下の窪みに正月料理を隠す臼の上に杵を三本組み合わせる
 太陽暦の信仰暦上、太陰暦正月の前後は、大雑把に言って四旬節のはじまりにあたります。四旬節は、イエスキリストが荒野で40日間を断食してすごしたことに倣い、その苦しみを分かち合う物忌みの期間です。勝手な解釈ですが、三本の杵は三位一体の隠喩、臼の下に正月料理を隠すとは断食(祝宴の自粛)の隠喩とみると、善行のひとつとして、「神と子と精霊のみもと、今われわれは身を謹みます」という意味に取ることができると思います。もしこの解釈が正しいとすれば、新約のイエスキリストの奇蹟を理解し、自らの生活にひきつけて表現(クリエイティブな象徴表現!)していたことになります。理解なき慣行では賞罰会で善行ポイントがつかないでしょうから。

 空想ネタも尽きました。

 仏壇に線香を焚くのを忌んだ翁の母の姿を思うとき、明治~戦前の隠れキリシタンのうちに、当時の日本人として特異な精神構造をもつ者があったと仮定してみたいのです。定型キリスト教者からみてグロテスクな内容であったとしても、惰性で続けるだけの年中行事ではなかったと。
 胸の奥に秘める価値をもつ精神的な内実をもっていたからこそ、表立つ仏教を心底で否定しえたのではないか。また、独自な信仰表現をすることができたのではないか。明治~戦前の典型的な日本(知識)人の精神が構造化されていなかった(古い基底のうえに、それとの内的な対決を経ずして取り入れた流行の思想が積み重なっているために、危機にあたって「忘れられていた」古い考え方が突然頭をもたげる)とすれば、辺境の地にあった彼女の精神は、裏と表とを意識的に持つが故に構造化されていたのではないか、ということです。

*1
一般的には、江戸期から明治初期の禁教下の信仰者を「潜伏キリシタン」、禁教を解かれた後に在来信仰を継続した信仰者を「隠れキリシタン」と呼び分けるようですが、ここでは、その実態の継続性に鑑み、一括して「隠れキリシタン」と呼びます。

*2
今富村の寺・神社・隠れキリスト教の関係は、遺物を見る限り、一筋縄ではいかないねじれ方をしているように感じます。
大江村の真言宗江月院の末庵が今富村にありますが、その本尊は何故か(神社のように)鏡であり、その鏡はひな壇の背後に置かれていたといいます。遺物を見ると隠れキリシタンが祈り?に鏡を用いていたりします。
また、今富神社の祭りは、表立っては米収穫祭ですが、太陽暦12月25日(キリシタンは戦国以来、信仰暦に太陽暦を使用)に当たるよう、太陰暦日(11月初)に設定されていたという説があります。当時も早稲を栽培していたとすると、その稲刈り~脱穀は8月半ばから9月初であり、収穫祭が遅すぎます。今富神社内には祇園社が祭られていますが、祇園社の祭る牛頭天王の「牛」がキリスト教信仰と関係することから、キリシタン絡みとする説があります。宗門吟味の発端となったのも、牛食の密告でした。

*3
明治初期の今富村の隠れキリシタンの水方(指導者)も、吟味のしばらく前に亡くなった今富村の庄屋も大崎姓でありることから、次のように推測は成り立つのではないかと思います:
今富村は代々の庄屋(大崎氏)が隠れキリシタンであった。まだ若い大崎氏当主が亡くなったとき、宗門吟味の好機到来と島原藩は判断した。そして、その長男が幼少であることを口実に(成人したら大崎氏に戻すという含みで)、島原藩と気脈の通じた大江村の上田宣珍の親族を、今富村の庄屋に任じた。また、吟味の後年、大崎氏期待の長男が急逝し、今富村の庄屋は上田氏がそのまま引き継いでいくこととなった。このとき、今富村の隠れキリシタンは、「話が違う」「暗殺・陰謀だ」と感じて、強訴を企てた。
*4
執念深さ、伝承性の高さを支えた制度的な要因として、末子相続制度が挙げられると思います。ちなみに、末子相続が一般的だった五島列島、長崎、島原、天草から鹿児島にかけての西九州ベルト地帯は、江戸期に多数の隠れキリシタン信仰者や隠れ一向宗信者を蔵した地域とぴたりと一致します。

*5
お隣の薩摩藩は、江戸時代を通じて浄土真宗(一向宗)を禁じていました。戦国時代の一向宗一揆の教訓を踏まえての政策です。浄土真宗徒は隠れて、枝分かれしながら信仰を継続(かくれ念仏と命名されている)する一方、宗徒の摘発は明治になっても続きました。明治初期、禁教政策は江戸時代のいままに継続していたのです。
実質的な浄土真宗解禁は西南戦争後の明治10年。解禁後、東西本願寺が乗り込んで異端を裁断し本山に収斂させます(この点が隠れキリシタンと異なります)。蛇足ながら、甑島に至っては、隠れキリシタンもいれば隠れ念仏信徒もいたそうで、水面下はすごいことになっていたのではないかと思います。

*6
尤も、当地の主流仏教、真言宗でいう成仏とは、生きている間の、人間の業にとらわれない闊達の境地であって(だから、生きながらにして成仏した僧を、船に乗せて海に送り出したりするわけで)、死後の世界観ではないのでしょうが、ここでは通俗的に、死後の成仏と極楽往生はほぼ同じとしておきます。

参考文献
天草市教育委員会, 2013, 﨑津・今富の集落調査報告書
海老沢有道ほか, 1970, 日本思想体系25 キリシタン書・排耶書
遠藤周作, 1980, 隠れキリシタン考
片岡弥吉, 1991, 浦上四番崩れ-明治政府のキリシタン弾圧
田北耕也, 1954, 昭和時代の潜伏キリシタン
富津の文化伝承の会, 2001, ふるさとの文化 第一集
富津の文化伝承の会, 2005, ふるさとの文化 第二集
浜崎献作, 1997, 隠れキリシタン
平田正範, 2001, 宗門心得違い始末
宮崎賢太郎, 2001, カクレキリシタン
桃園恵真, 1986, さつまのかくれ念仏

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