たとえば、二才宿(若衆宿のこの地での呼称)。一般的には、明治期にはいって衰退したというのが通説ですが、この地では、夜這いともども、戦後しばらくは続いていたといいます。夜這いに関しては、翁は戦後すでに年長者だったので実行部隊というより唆す方だったということですが、この点の信憑性にはちょっと疑問符をつけておきましょう。
平成10年から翁も参加して編集発行された、この地の伝承や風習を採集したテキスト*によれば、大正期には間数の多い家に頼み込んで数人単位で寝泊りしていたが、昭和のはじめに集落の集会場ができるとそこが寝泊りの場所になり、青年倶楽部と名づけられて区長(集落の自治会長)の下に公的に組織づけられ、行事の先鋒として駆り出されていた由です。青年団ですね。夜警、精米、病人の搬送、祭り神輿の警護や雑役など。現在では、その公的役割の多くは消防団に引き継がれているようです。また、公的な役職である支部長などとは別に、二才頭とよばれる役もあり、公私両側面をもっていたようです。ですから、青年倶楽部主宰?で、夜這いだけでなく、元旦の夜送りや、神待ちといった、睦みの機会もいろいろ持たれていたようです。
元旦の夜送りでは唄を歌って家を回ります(当然に好きな女の子の家の前での口上も決まっている)。神待ちは深夜、宮の前に青年男女が集まり、求愛歌の掛け合い(歌垣)が行われていたといいます。「何処の何子に歌ひとつ貸そか、歌の返事は歌でよい」という簡略な定型歌の投げかけ(歌を返してもらえれば求愛成功)に加えて、即興歌も飛び出したり、一番鳥が鳴くまで続いたと。
雲南省ペー族の火把節 |
虫追い祭の話も興味深いです。平成9-10年頃、中国雲南省の少数民族の祭りを取材したNHKの番組を見ていた村の何人かが、これは自分の村の虫追い祭と同じだと思ったという話です。翁が本で調べたところ、雲南省大理喜州大理の白族(ペー族)だったと。
上記テキストによれば、今富村の虫追い祭は、次のような情景でした。
虫追い祭の当日は、二川の合流点に、大きな車輪をつけた四輪車を引き出し、そのうえに十メートル以上の高さに松と竹の柱を立て、五色の吹流しを飾り大綱に結び、その大綱にたくさんの小綱をつけて、三区の区民総出で、神主を先頭に...法螺貝や鉦・太鼓を打ち鳴らして、「サイトウベットウサネモリ**、稲の虫しゃ死んだぞ、後は栄えて満作じゃ満作じゃ」と囃し立て...海岸までくだり...電灯の普及とともに、幟柱(のぼり)が電線に触れるため行われなくなり、代わって、石油を畝間に流して竹の枝で稲穂を撫で払って虫を水面の油に絡め捕る方法を用いるようになったと。ただ、戦時中は石油が不足したため、旧来の方法が復活。翁も参加したそうです。
さて、この雲南省大理。揚子江、メコン、サルウィン三江が併流する地域のすぐ南にあります。多分7-8千年前?、チベットから雲南・東南アジアへの民族移動の跡地の一角です。
手元本を遺失しているので古い記憶で書きますが、宮本常一は、晩年(1970年代末)の研究生向け講義録「日本文化の形成」三巻本で、渡部忠世「稲の道」(古い日干しレンガに含まれる籾殻をインド・中国・東南アジアに亘って調査し、稲作の伝播経路を推測した)を高く評価して、概略次のように述べていました:
- 水稲はチベット南側からチベットを越え、三川に沿って、短米長米に分かれながら中国南部、ラオス・タイ、ミャンマーに分播していったという、アッサム雲南起源説の信憑性は高いのではないか。
- 百越(長江下流域からベトナム北部にかけての地域に居住した種族)にたどり着いた稲作技術は、2千年前頃、政治的圧迫を避け新開地を求めて船で東シナ海に乗り出した百越の民が、朝鮮半島南部と日本に持ってきたと自分は考えている。船は安定性を考えると双胴船のデッキに小屋掛けしたものであったのではないか***。移民たちは、船で日本各地の沿岸を巡り、入り江から川を遡上し、好適地(潮の来ない湿原)を見つけると定住したのではないか。だから、古い稲作地は、登呂のように海に近い、あるいは熊野本宮のように海から大河を遡上した場所が多い。
- 朝鮮半島南部と九州を中心とする地域は、百越からの入植地として、まとめて捉えたほうがよい。北方からの騎馬民族が朝鮮半島から対馬を渡って日本に達したとき、これら百越の民が手助けしたのではないか。
ところが、実際はそんなに簡単に大団円とはならないようです。近年の中国発の定説は、長江中流域で紀元前 7-8千年前に稲作が始まり下流へ伝播、さらに長江流域全体に広がったというもののようです*****。この説によると、雲南省大理と天草は行き分かれてしまいますね。残念。
* 富津の文化伝承の会「ふるさとの文化 第一集」 2001年
** 武蔵国は長井別当、斎藤実盛の名が唄われるのは、馬上の実盛が稲株に転倒した際に討たれた、実盛の怨念が稲の害虫になった、との伝説に由来するそうで、形は違え各地の虫追い歌の定番歌のようです。
*** ごく個人的な思いつきですが、御輿(みこし)と担ぎ手は、双胴船と波の似姿ではないかと、僕は昔から漠然と思っていました。だから、天草に来てびっくりしました。バスに乗っていて、上天草(宇土市)に、そのまんまの地名を見つけけて。御輿来(おこしき)海岸。夕陽の名所です。
**** 雲南省少数民族の文化 3 白族(ペー族)の歌垣。まあ、歌垣的な求愛の掛け合いは、僕もトルコ北東部で見たことがあり、世界各地にあるのでしょうが。
***** 個人サイト「日本人の起源」 中国の研究者が喉元を押さえてしまうと、稲作伝播先経路を辿る実証研究はもはや難しいでしょう。
火把節画像の典拠
雲南省大理白族が五穀豊穣を祝う「火把節」2012年8月:FocusAsia より
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